2019-11-13 第200回国会 衆議院 農林水産委員会 第7号
この委員会に所属して二年たちますけれども、この間、委員の方々が諫早の干拓事業、それから八郎潟や霞ケ浦について質問されていました。そういう質問を拝聴して感じていたことは、やはり自然を大きくいじると弊害があるものだなと、どの質問も水質汚染についてでしたから、そう感じておりました。
この委員会に所属して二年たちますけれども、この間、委員の方々が諫早の干拓事業、それから八郎潟や霞ケ浦について質問されていました。そういう質問を拝聴して感じていたことは、やはり自然を大きくいじると弊害があるものだなと、どの質問も水質汚染についてでしたから、そう感じておりました。
もともと国内で二番目に大きかった汽水湖でありました八郎潟が、一九五七年から国営による、二十年にわたる干拓事業によって、八郎湖になりました。このときから、河川の水と一緒に農業排水そして生活排水が流れ込んで、夏場になればアオコが異常発生するようになりました。この梅雨の後、これから真夏の時期を迎えますが、雨が少なく、晴れて気温が高い日、つまり日照りが続くような天候の場合にやはり発生しやすい。
○室本政府参考人 八郎潟の水質改善の御質問でございますが、基本的には、秋田県が策定しました八郎潟に係る湖沼水質保全計画、これは今、第二期で平成三十年度までということで、ことしから新たな計画になるわけでございますが、その計画に基づきまして、環境省、八郎潟町、大潟村、そういった関係機関と連携しまして、現在さまざまな取組を実施してございます。
八郎潟と呼ばれていました。一九五七年から国営による、二十年にわたる干拓事業によって、淡水の湖、八郎湖になりましたけれども、このときから既にアオコが大量発生するようになりました。 次が、資料2の写真、アオコです。特に夏ごろに、雨が少なく、晴れて気温が高い日が続く、つまり日照りが続くような天候の場合に発生しやすい。これで大量発生すれば、このように、マットを敷いたようにアオコが湖を覆います。
八郎湖の水質でありますけれども、八郎潟干拓事業が完了してから徐々に富栄養化が進行いたしまして、近年は、アオコが発生するなど、水質問題が顕在化をいたしております。水質への対策が必要であると認識もいたしているところでございます。
特に、高知県と広大な面積の秋田県八郎潟とでは、言わば圃場の土地改良の進捗状況や整備率等でハンディキャップが随分あります。地域地域でそうした圃場における整備率がまだまばらでございまして、特に中四国の農政局管内では全国平均の半分ぐらいしかまだありません。
まず、八郎湖ですね、昔、八郎潟と言いましたが、今、八郎湖と言います、の水質改善に向けた支援についてお伺いいたします。 湖沼水質保全特措法というのがありまして、これが二〇〇七年にちょうど、全国で十一番目の指定湖沼があるんですが、秋田県の八郎湖はその十一番目の最後という状況になっておりますが、そのために県が策定した保全計画に基づいて現在水質の改善に努めております。
一つだけ消滅可能性都市でないのが大潟村というところでありまして、国策で八郎潟を干拓をして、大穀倉地帯としてつくり上げたその大潟村だけが消滅可能性都市ではなくて、それ以外は秋田市も含めて消滅可能性都市と言われています。 この消滅可能性都市というのは非常に怖い話ではありますけれども、今後の人口の推移については危機感を持って見ていかなければなりません。
また、先ほど、どの地域でも転作として大豆ができないというのは、本当に私もそのとおりだと思いますし、やはり委員の地元のような、秋田県のような、割と平らで広い、また八郎潟みたいに埋め立てをして、すばらしい整ったところが、畑があって田んぼがあるところと、またないところによっても違う。
私が記憶にある中でも、昭和三十年前半、八郎潟を開拓する、そこからもう始まって、平成二十五年でしたか、安倍総理が減反政策をやめて三十年までにゼロベースにするんだという話がありましたが、あの時代からも度々農政が変わってくることを実感をしてまいりました。
ちょうど秋田県の八郎潟が干拓を終わる頃でして、昭和三十年代の後半、干拓は昭和三十二年から始まりましたから、終わる頃で、四十二、三年、終わって、四十三年からは入植が始まった。その頃、集団就職で皆、農家労働力が失われる中で、心ある若い青年たちが秋田県を中心に全国各地から、食料の自給率を高めるために頑張ろうではないか、米の生産をやって自給率を高めて頑張っていこうという希望に燃えて入植したんですよ。
戦後の農業政策の代表的な事業の一つとして、秋田県八郎潟の干拓事業がございました。これは昭和三十二年、一九五七年に始まっております。当時は岸信介総理大臣でございました。 本干拓事業では、昭和四十二年から入植を開始しておりますが、一方で、昭和四十年代前半に大豊作が続いたことや総需要量が減少に転じたことから国は膨大な過剰在庫を抱えることになり、昭和四十六年から減反政策を本格的に開始をしております。
○政府参考人(佐藤一雄君) 先ほどお答えしたところでございますが、実態的に申し上げますと、一万三千ヘクタールの農地が造成されまして、そのうち八郎潟の、大潟村の皆さんが関係する水田が約九千ヘクタールございまして、ここで水稲が作付けされたわけですが、その後、今説明申し上げましたように、違う麦でありますとか大豆への転換ということに相なったところでございますが、現在におきましては、約九千ヘクタールの水田面積
その干拓事業が終わって入植が始まって、たった二年の後に八郎潟の入植が始まっておりますが、時の事情はいろいろ様々あったとは思いますが、この二つ、つまり食糧増産を目的とした干拓事業と減反の施策は相反する政策であって、整合性が問われるという見解でございます。
○儀間光男君 歴史を少し振り返ってみたいと思うのでありますが、戦後の農業政策の代表的な事業の一つとして、秋田県八郎潟の干拓事業がございました。これは昭和三十二年、一九五七年に始まっております。その干拓事業の目的は一体何だったか、同事業の経過も含めて、その事業量についても御答弁をいただきたいと思います。
これは皆さんも恐らく御存じのとおりかと思うんですが、昭和三十九年、当時、琵琶湖に次ぐ国内二位の面積を誇った八郎潟を干拓してできた村だということで、百七十平方キロメートルを干拓、これはどのぐらいかと私も物すごく驚いたんですが、山手線がすっぽり入るんだというぐらい大きな農村だということなんですね。
そして、我が秋田県は、この前、農水大臣にはお話ししましたが、八郎潟の干拓ということで、大潟村があります。国策の中で大規模な干拓をして、米の増量、増産をということで、全国から入植者を集めて、大規模な機械を使い、農業を行ってまいりました。結果、需給のバランスが崩れて、その大潟村ももちろん減反ですが、そこで守らない人がいるために、従来の秋田県の農民は大変苦労をいたして、減反の負担も強いられました。
私の地元、秋田県の八郎潟町という人口六千八百人の非常に小さな町でありますけれども、私の両親、今年九十二歳と八十二歳で、おかげさまで元気で歩いて生活しております。
例えば、私の郷土である秋田県は、八郎潟という大きな湖を干拓しました。日本で初めての実験の大規模農業を行ったわけです。これは全くの国策です。そんな中で、全国から入植者を呼び、そして、お米の大量生産、大型機械を使っていくという実験をしました。 その中で、実は需要、供給の関係のバランスが崩れ、また、嗜好の食べ物も変わり、お米の減反政策というのが来ました。
しかし、当時としてはそれはある時期正しかったかもしれないけれども、八郎潟なんというのは一番わかりやすい例ですけれども、さあやりましょう、全国から、やる気のある農業者は財産を売っ払ってみんなここへいらっしゃいと言ったら、一年か二年たったら、もうつくるな、もうここはつくらなくていいんだというようなふうで、まさに猫の目の農政の転換の中でそれに愚弄されてきたというのが、そういう干拓地域の人たちであったわけでございます
ちょっと一言だけ申し上げたいと思いますが、先ほど、八郎潟ばかり例に出してと言われますが、そういう意味でいえば、私は九州のこともちゃんと見ておるつもりでございます。 例えば、北海道では、米をつくりたいと思っても地域によってはつくれない地域があります。今度の制度では、残念ながらそれは乗っかりません。
それから、大臣は今、もっと客観的に見てほしいと言われましたけれども、大臣は二言目には八郎潟のことを例に出されますけれども、私たち九州は、一〇〇%生産調整に応じて、そして狭い農地をやはりしっかり使って、そこからどれに転作をするか、裏作を何にするか、そういう土地利用というものを進めてきました。 日本にはいろいろな農業の形態があるんです。八郎潟だけじゃないんです。九州もあるんです。
ただ、たまたまその涌井グループの人たちと一緒だったときに私が申し上げたのは、かつて日本の食糧難の中で、米の増産だと、国策として大潟村を、八郎潟を埋め立てて、そこでもって米の生産をやろうじゃないかといって全国から人を集めて、財産もみんな売り払ってそこに来た。ところが、そこで営農を始めたら、一年か二年で、いや、もう米は余っているから減反だ、もうつくるなと。
有名なあの八郎潟のまさに国家事業として進めた八郎潟干拓、その中での大潟村のこの問題、この大潟村については、御存じのとおり、四十年間自民党の農政に反対して、裁判やって、逮捕までされて、そして一貫して減反に反対をしてきた人たちがいます。どちらがいいとか悪いとかではなくて、そういう歴史的な経過があります。
それからもう一つは、若干の今下落傾向ですけれども、しかし新たな制度の下では、だからこそその辺りの需給調整をきちっとやっていく、生産数量目標をきちっと掲げて、先ほど八郎潟のお話をしましたけれども、今までそういうことに従わなかった人たちも含めて、すべての人たち、多くの人たちがこの制度にどんどんと入っていただくことによって、きちっとした、本当に必要な数量を確保していく、そのことが需給を更にきちっと引き締めていくということに
また、八郎潟、大潟村のあそこで入植をされて、今まで減反に真っ向から反対をしてやってきた皆さん方についても、今回、全部とは言いませんけれども、ほとんどの方、多くの方たちが、この制度に是非参加して、自分のところは余った水田を利用して米粉を作りたいと。米粉で今うどんももう作る工場も横に併設して、来年度からは是非この事業に参加したいと。
八郎潟の大潟村、御存じのとおり、ここは国策でもって入植、食料増産ということをにしきの御旗にしてやってきた。ばあっと入植者が入った。そうしたらそのときに、もう時代は変わったんだといって、今度は減反をやれと言った。